上海和僑会事例
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上海和僑会事例

 それでも中国で生きる 

(上海和僑会広報/小林純子)

[イートアンド上海 億特安餐飲管理(上海)有限公司  副総経理]

 

みなさん、こんにちは。上海和僑会広報の小林純子です。

はじめて中国の地を踏んだのは、2004年4月4日瀋陽での卓球・福原愛選手の密着取材。コーディネーターも通訳もいない、一人きりの出張でした。当時の瀋陽はとにかく田舎で、道路も舗装されていないデコボコ道。空港到着後タクシーに乗ると、ワンメーター辺りで荷物を降ろされ、別の車に乗せられました。その時は、どこかに売られていくのかと思う怖い体験でした。

最初の中国の印象が最悪だったので、その後に移動した北京は、ホテルで英語が通じるし、車は高級車。后海BARストリートのネオン街はまるで天国のように感じました。再び2005年の反日デモの時に上海で行われた世界卓球選手権取材で中国に。事前に日本で報道されていた映像は、日本料理店が襲われて、ミズノの看板に物が投げられている。一時は日本選手団が出場を悩んだほどの深刻な状況でした。

 

しかし実際に上海に来ると、中国人は優しく不快な思いをすることは一度もありませんでした。記者の仕事をしていたのでメディアの仕事に疑問を持ち、何に対しても自分の目で見て、現場で感じなければ、真実はわからないものだと衝撃をうけました。北京オリンピックが行われる中国を自分の目でもっと見てみたい、中国人の生きるパワーを学びたいと思い中国に飛び込みました。とはいえ、金なし・コネなし・中国人脈なしの私が中国進出するのは、簡単でなかったのですが、大連のインターンシップに申し込み、
その期間内で就職先を見つけました。その後就業ビザを取得し、北京五輪・上海万博・アジアスポーツ大会と、フリーランスとして働きました。

 

上海和僑会との出会いは、友人が誘ってくれた飲み会です。以前は、日本人同士の交流に対して、ある一定の距離感を保っていたのですが、上海和僑会の飲みにケーションは、新鮮でとにかく楽しかったので会員になりました。個性が強く、ストレートな人が多い和僑メンバー、最初の頃は相手が何の職業をしている人かさえ知りませんでした。広報幹事になり、交流することで相手に興味を持ち、和僑会として何ができるか?
貢献できることは何か?を意識していくうちに、深く繋がっていったように思います。今では家族みたいな存在ですね。

日本を離れ中国で生活していると、「中国化したね」とか言われることがありますが、実は日本にいた頃より、アイディンティティが強くなり、日本のことを真剣に考え、当たり前だった家族や友人の存在を大切に思ったりするものです。和僑人として日本に貢献したいとも。

 

和僑会っていいな~と感じたのは、震災後に代々木公園で行なわれた「3.11 PlayForJapan」。震災後に上海和僑会で出来ない現地での手伝いを、バトンを渡すと快く引き受けてくれる東京和僑会の存在。『和僑』というキーワードで、アジアが繋がる無限の可能性を感じました。『和僑会』の魅力です。だけど反面、時々戸惑うこともあります。
それは和僑会メンバーだからという理由で、面識のない相手からの安直なお願い攻撃です。個人が持っている人脈や情報は、その人の大切な財産であり、デリケートなものだと認識しています。紹介する側にも責任は発生するわけですし、安易なマッチングは、双方にとってマイナスになる可能性を孕んでいます。

和僑会とは何かをしてくれる会ではなく、各自がコントリビューションを意識して、コミュニケーションを深めることで、強い和僑会の輪を作っていくプラットフォームの一つだと考えています。